そらごとそうこ
ここは、戦.国.無.双.2 (戦.国時代)の二次創作メインサイト。 ナチュラルにほもを含みます。苦手な方は、急ぎ足でどうかお逃げ下さい。気分を害されても責任もてませぬ。(携帯から見ると画面が多少おかしなことになっているかもしれません。←ご指摘頂けると幸い) なお版権元さまゲーム会社さまとは関係ございません。全て萌え故の妄想でございます。
author : hiyuki 2007.07.26 |
- 夜露に濡れた仔猫 -
01.
ちかごろ、内々の『酒宴』といえば、左近の主である三成と、その友の兼続、なぜか兼続について回っている慶次、そして――幸村という組み合わせが多かった。
それは、そもそも三成があまり酒を好まないせいだと思われる。
わざわざ兼続が、遠く米沢から三成の屋敷を訪れたときにしか、酒宴など開かれないのだから、自然とそうした面子で酒を呑むことが多くなるというわけだ。
兼続も慶次も、ついでにいえば幸村もみなたいそうな酒好きで、しかもこちらへくるたび、兼続は上物の酒を手みやげにやってくる。それで日が落ちたころになれば、自然と――、というか勝手に、宴が始まる。
それが、いつもの流れ。
ただこの日いつもと違ったのは、左近自身はその酒宴に参加しなかったということだろう。
理由は、べつにたいしたことではない。朝太鼓が鳴るまでに片づけておかねかればならない仕事が、まだ残っていたからだ。
政務をだしに面倒くさいことから逃げる、という手は左近自身よく使うものだが、この日は珍しくほんとうに、仕事の量が半端無かった。
(――ああ、もうこんな刻か)
ふつと墨をする手元が見えなくなったことを感じて、左近は顔を上げた。
さきほどから、妙に視界がちらつくとは思っていたが、案の定文机の傍らに置いたひょうそくの火が消えてしまっている。
部屋に明かりを灯したのは、たしか別室での酒宴が始まってすぐのころだった。
となれば、あれから数刻はたっているということだろう。
(いい加減、つぶれたころかね)
と、己の主のことを思って、左近は苦笑する。
三成は酒に弱い。
しかし、気心知れた仲間内であるからか、――それとも張り合おうとでもしているのか、兼続たちと飲むときに限っては、いつもよりも多く酒を入れる。
そして大抵は、つぶれて寝入ってしまう。
そのときそこに左近がいれば、ちゃんと寝所まで運ぶなり羽織をかけてさしあげたりするのだが、今日ばかりはそうもいかない。
では、そこにいる者たちが、そうした気遣いをしてくれるかというと、それもまた甚だ疑問だった。
酒のもたらす心地よい眠気に従って、みなそのままで雑魚寝などしていそうだ。
「……ま、ちょっと様子でもみてくるか」
ひょうそくの油が切れたのも、いい頃合いだった。
片づけねばならなかった仕事も残りはあとわずかで、これなら、わざわざ油を足すまでもない。日が昇って空が明るくなってから残りに取りかかっても、十分だろう。
そう判断して、左近は今日の政務はここまでとすることにした。
障子を開けて縁側に出れば、はや月が傾き始めていて、夜明けまでそう遠くないだろうことが知れた。
しかしながら夜は夜。
着流し姿ではそこそこ冷えを感じ、左近はぶるりと身体を震わせ、一瞬、(やはりやめにするか)と、思いかけ、(いや、どうせ確認しなかったらしなかったで、あとでまた気になりだすにちがいない)とすぐに思い直して嘆息する。
しかし、いつから自分はこのような、世話焼き体質になってしまったのか…
(いやいや、明日もたんまり仕事があるからな。殿が風邪でもおひきなさったら、俺のほうにしわ寄せがきて面倒だ。それにまあ、体もカチコチだしちょうど良い散歩代わりになる)
と、ほのかに感じた切なさにはそんなふうに言い訳し、左近はとぼとぼと酒宴の開かれている座敷まで足を運んだのだった。
そうして、縁づたいに庭にある小池の側までやってきた左近は、そのとき、そこに人影のようなものを見つけてぎょっとした。
(っ、幽鬼か?!)
そのようなものを闇雲に信じる年頃でもないのに、そう思ってしまったのは、そこにたたずむ人影が、何をするでもなくぼうっと水面をのぞき込んでいたからだった。
「誰だ!」
だがすぐさま我に返った左近の誰何に、人影はハッとしたように身じろぎ、次の瞬間、
「し…ま、殿…?」
「……………幸村、か?」
左近は、二度驚いて咄嗟に掴んだ懐刀から手を離す。
まだ夜目に慣れていなくてはっきりとは見えないが、返ってきたのは、たしかに幸村の声だったからだ。
はて、なぜこんなところに幸村が…? 酒宴はもう終わったのだろうか。それとも、単に酔いをさましているだけか、もしくは何かあったか…
ぐるぐると考えをめぐらせつつ、結局左近は本人に問いかけることにした。
「――そんなところで、何してるんですか? 幸村殿」
「……いえ、少し酔いをさましておりました。島殿こそ、どうして」
「ああ、俺はちょうどきりいいところまで終わったんでね。様子見に」
ふと幸村は、微笑したような息をこぼす。
そして、
「三成殿でしたら、隣の室でお休みになってなっておいでです。布団もちゃんとしいてありますから……」
などということを言う。
「お、それはそれは…」
どうやら幸村の微笑の意味は、左近が三成を気にかけて来たということを、見抜いたゆえのものだったらしい。
つまり幸村にまで、左近の世話焼きぶりが知れ渡っているということだ。
なんとなく苦笑したい気分に駆られながら、左近は、
(そういや、幸村がいたな)
と片手で顎をさする。
どうやら律儀で、変にしっかりとしたところは、武田時代からかわっていないらしい。
(そうだ。そうじゃねえか……)
わざわざ己が足を運ぶまでもなく、ちょっと考えれば、幸村が三成をなんとかしてくれるだろうという想像くらいはつきそうなものだ。
なら、(気にしなくてもよかったんじゃないか) と、左近は、いい加減己の世話焼き癖は、そんなことも思いつかないくらい――、ほとんど病気の域にまで達しているのかと、肩を落としたいような気持ちになった。しかし、(いや、そう思いつきもしなかったのがおかしいのか?)とすぐさま、己の思考の流れのほうに疑問を抱く。
そもそも幸村は昔から、戦に勝利した後の無礼講の酒宴や――、とにかくそういった、気を張る必要のない場所でも、終始正座をくずさないような奴だし、いつも最後までちゃんと気をたもって、酔っぱらった人間の介抱まできっちりやっているたちだった。
それはもう、あのころの幸村の年では、できすぎるほどに完璧に。
しかしそうした頭が働かなかったというのは――、
おそらく、
(そうか……。いまの幸村と、昔の知る幸村とがうまく合致しなかったせいか)
こんなふうに二人きりで話したことなど、再会してからこのかたしたことがない。
けれど、それでも分かるくらい、なんというか、武田にいたころの幸村とは、受ける印象がまったく違う。
それこそ、左近は、幸村と同じ顔の、まったくの別人のような気さえしていたのではないだろうか…
ふいに、
「…まさか、島殿とまたこうしてお会いできるとは思ってもおりませんでした」
黙り込んでしまった左近を気にしたのか、沈黙を振り払うかのように幸村が言った。
それは独り言のような呟きだったが、左近は頷く。
「ま、そうですね。俺も驚きましたよ」
その瞬間ぴく、と幸村の頬が動くのが分かった。
もうずいぶん夜目に慣れたのか、ようやく幸村の表情ひとつひとつが見えるようになってきているのだ。
そうして見ると、幸村の態度は実に不可解だった。
彼のほうから話を繋げてきたというのに、幸村自身は左近に目を合わせようとしていない。顔こそ上げているが、視線はずっと斜め下あたりにむけられたままなのだ。
(やっぱり、まだ俺のことが気にくわないか?)
と左近は考える。
だがしかし、それにしては、幸村の声が穏やかであるし、こんなに長く左近との会話を続けているのも妙だ。
かつて、武田時代のころなど――、
『幸村、ちょっといいか?』
『……何かご用でもおありですか』
『いや、ちょっと話でもしないか』
『……お断りします』
それで終了だった。もはや会話でもない。
そのことを思うと、なんだか奇妙な感激すら覚えてしまう。
「あの……」
身じろぎして、幸村はわずかに視線をあげた。
左近は、(お、こっちを見るか?)と一瞬期待したが――、結局幸村の視線は左近の顔を捕らえることなく再び伏せられてしまった。
「それ、やめてくださいませんか…」
「…それ、とは何です? 幸村殿」
左近は、いささか拍子抜けしたような心地になる。
なんだろう。
武田にいたころでさえ、愚直なくせにどこか掴めないところがあると思わせられる奴だったが、いまはそれに数段拍車がかかっているような気がする。
幸村は続けた。
「ですから、それ、です…」
「だから、それでは分かりませんって。さすがの左近でも幸村殿の心までは読めませんよ」
きゅっと、幸村は口を引き結んだ。眉が不快そうに寄せられ、視線がさらに下へと落ちていく。
……ため息さえ、吐かれた。
(おいおい)
いったい何がそんなに気に入らないのか、左近にはさっぱり見当がつかない。
むしろ、こっちこそ、そんなふうな態度を取られると不快になるではないかと、左近もまた眉をひそめる。
しかしながら、しばしの沈黙ののち、幸村の口から発せられたのは意外な言葉だった。
「あの…、その幸村、殿というのは……」
「え?」
「ですから、わざわざ私にまで、そのような……」
左近は、ようやく合点がいった。
「…………あー…、そういうことですか」
こほんと咳払いをひとつし、口調を改める。
「はいはい。――じゃあ、これでいいのかね。幸村」
左近が察したことは正しかったらしく、ようやくほっとしたというように、幸村は「はい」と首を振った。
「すみません、どうも据わりが悪いといいますか、背中がもぞもぞするような気がして…」
まあ、それもそうだろう。
この戦国の世、身分が上下することなど多々あるとはいえ、やはり慣れないものは慣れないし、気色が悪い。かくいう左近とて、幸村に敬いの態度を取るのはなんだか奇妙な心地だった。しかしまあ、切り替えが耐えられないということはないのだが。
「別に構わねえがな。ただし、さすがに殿の前では勘弁してくれよ」
「ですが…」
「いま、あんたの立場は、殿のご友人ってことになってるんだぜ? 家臣の俺がそう親しげにするわけにもいかんだろうが」
俺にも立場ってものがあるんでね。――と、続ければ、幸村は仕方がないと思ったのだろう。ぐっと押し黙った。
(ま、そんなのは建前だが)
べつに、左近自身は、幸村に言ったようなことはさほど気にしていない。そもそも主人である三成に対する接し方も十分不遜であると自覚している。
ただ問題は、三成が幸村のことをいっとう気に入っている――という、事実だった。
何がそんなに気に入ったのかは知らないが、三成は少々、『友』というには逸脱しているくらいに幸村のことを好いてる。それは、兼続もまたそうだった。
三成に幸村と引き合わされたその晩、二人の態度を不審に思った三成から、こんこんと幸村との関係について説明させられものだし、己が幸村に嫌われていたことを打ち明けると、
「それで幸村の様子がおかしかったのだな。わかった、おまえは金輪際幸村に近づくな。近づけぬよう、幸村が来る日はおまえにたっぷり仕事をやろう、左近」
とまで厳命されてしまった始末だ(そして、今宵、事実実行されたわけだが)。
そんな殿の前で幸村に馴れ馴れしい態度を取ることは、自ら寿命を縮めるようなものだと左近は思う。
「……幸村は、いつから殿と仲良くなったんだ?」
「え、ええと、…そうですね。三成殿とお会いしたのは、人質としてこちらに来てすぐのことでしたが…、いまのように親しくさせていただくようになったのは、小田原攻めの少し前でしょうか」
「義の誓いってやつか」
「…はい。その、少しまえに兼続殿から、三成殿にご紹介いただいて、ようやくきちんとお話することができました」
「ほう」
では、三成よりも先に兼続と親しかったのか。てっきり、三成繋がりで兼続と知り合ったと思っていたが、そうではないらしい。
そういえば幸村は、上杉に人質として差し出されていたころがあったと、左近は記憶をひっくり返して思い出した。
「ま、よかったじゃないか。うちの殿にとっても、あんたにとっても。――たしか、あんた、友達少なかったろ」
くつ、と笑いをかみ殺すようにちゃかして言えば、さっと幸村の頬が羞恥に染まった。
あのころ、幸村の周りには常に誰かしら人がいたが、たいていは大人か、幸村に従う忍びのものだった。
幸村当人が友と思っていようが、相手側はどうだったかあやしい。
「そっ、そのようなことはありませぬ! いちいち、私のことを知っているような口ぶりで話さないでいただきたい」
機嫌を損ねたのか、幸村はそんなことを言ってそっぽを向いてしまった。
「…そういうところは、左近殿は昔とお変わりない…」
「さすがに、もういい年だからな。そうそう性格が変わったりはしないさ。……あんたは、ずいぶん大人しくなったみたいだけど」
その一言が意外だったのか、「えっ」と声を上げて幸村はこちらを見た。
ぱちり、と久しぶりに彼の黒々とした瞳と目が合う。
(やっぱり、違う)
その瞬間、左近は疑問が確信に変わる気配をひしひしと味わっていた。
――ほの昏い。
かつての幸村の目にあった、光がまるでない。
未来を夢み、まっすぐ突き進むことを恐れなかったころの、輝かしいまでの明るさが失われている…
「長篠か」
その、たまらず口から零れ出た独語のようなつぶやきに、幸村は過剰なまでに反応した。
びくり、と肩を跳ね上たかと思うと、せっかく合った視線もまた、地に戻してしまう。
左近はちっと舌打ちした。
どうやら予想は当たっていたらしい。
その戦の折りには、左近は武田を出てしまっていた。だから、それがどんな戦だったのか詳しくはしらない。
ただ――、酷いものだったと、まるで地獄のようだったと、そう耳にしているだけだ。
最強といわれた武田の騎馬軍団が、なすすべもなく地に臥し、あまりにも多くの者が死んだ。
そして幸村は、そんな前線から生き残り――、しかし何もかもを失ってしまったのだ。
主も、心を通わせ合った多くの仲間も、そして槍を持つ誇りさえも…
「あんたは、まだ長篠での戦から、抜け出せてないのか」
問いかけでなく、確信を持って左近は言った。
「それは……」
幸村は口を開きかけ、しかし答えに窮したようにすぐにまた閉じてしまった。
そうして幸村が黙り込んでしまうと、左近もそれ以上を口にすることができなくて、二人の間には自然と沈黙が落ちた。
いまここにいるのが、三成や兼続といった者たちだったなら、何かしら幸村に声をかけることはできただろう。
それが叱咤でも、慰めでも。
けれど、左近は(俺には無理だ…)と思っていた。
変に武田と関わりがあるからこそ、何を言葉にすることもできなかった。
幸村が虚にとりつかれた、長篠の戦――、その戦で、左近の顔見知りや、親しかった者とて多く命を落としている。
だから、他人事ではない。
けれど実際にその場にいた、当事者というわけでもない…
なにより左近には、そうして長篠のことを思う幸村を目にすることで、何か負い目のようなものを感じてしまっていた。
己は、信玄公が死去するやいなや、見限るように、さっさと武田を離れてしまったのだから…
むろん、それが悪いことというわけではないし、いまの世ではあたりまえのことだ。
だがしかし、あくまで武田を守り抜こうとした幸村の前では、そんな言い訳など薄っぺらいものでしかない気がしてならない。
――責められているような、そんな気になっているのかもしれない。
だからこそ、
(あんただけでも、生き残って良かったよ)
という慰めも、
(いつまでも引きずっていたって仕方がないだろう)
という叱咤も、そうたやすく口にはできなかった。
どんな言葉でさえも、己が発することで、すべて裏目に出てしまいそうで…
「……私は、」
ざ、と土を踏む音がした。
音に惹かれるように顔を上げれば、いつのまにか、幸村が縁側のすぐ近くにまで歩み寄ってきていた。
「私、は…」
「……幸村…」
ためらうように、幸村が左近へ手を伸ばしてくる。
その指先がわずかに震えているように見えたのは、左近の単なる錯覚だろうか。
「私、はっ……、ずっと、あなたのことが……、きらいでした」
伸ばされた指先が、左近の衣の袖をぎゅっと掴む。
「理由は、よくわかりませんでしたけど、でも……、あなたを見るのが、いやで」
「……ああ、知ってたよ」
まるで、縋るような幸村の手を、左近は振り払えなかった。いや、振り払おうという気さえ、起きなかった。
『きらい』だと、口にしながら、己に触れようとしてくる、幸村のこころのうちが知りたいと思った……
「で、すが…」
幸村は、こくりと喉を鳴らす。
それにつられたのか、左近もまた口のなかがからからに渇いていくような、そんな心地を味わった。ただ、幸村と話しているだけだというのに、いまの己はひどく緊張しているのだろう。
「ですが、ここであなたにお会いしたとき、私は…」
そこでまた一端言葉を切って、幸村はひゅくっと息を飲み込んだ。
声さえ震えてはいなかったが、その音は指先と同じように、かすかに震えていた。
そして、幸村は言った。
まるで左近に、懺悔でもするように――
「私、は……、島殿、あなたにお会いした瞬間、自分でも信じられないくらいにあなたが憎らしいと――、ですが…、涙が出そうなほどに嬉しいと、思ったのです」
「あなたが、生きて」
――あなたが武田を見捨てて、のうのうと生きていて、憎らしいと。
――それでも、あなたが、生きていてくれて、嬉しいと。
そんなふうに、幸村は言った……
(ああ、そうか)
その瞬間、左近は悟った。
こうして再び顔を合わせるようになって、ずっと幸村が己によそよそしかったわけ。
昔と同じままに、左近を好いてはいないだろうに、こんなふうに話を続けようとしたり、
そして、触れたがってくるわけ。
(……それは、あんたは、俺がちゃんと生きているか確かめたかったんだな)
幸村にとって、左近は『過去』だ。
いまはもう失われてしまった、かつての日々そのものなのだ。
生涯をつくすと決めた主がいて、志をおなじくする仲間がいて、なんの迷いも不安もなく、ただまっすぐに前を見ていればよかった頃の記憶を、左近から感じ取っているのだ…
あの日々が、幻などではなかったのだと。
「幸村」
左近は、言った。
「…幸村」
ほかの何を声にするでもなく、ただ名を呼んだ。
「あ……」
はっとしたように、幸村は顔をあげた。あわてて、左近の袖から指を離そうとする。
「幸村」
しかし左近は、そうして遠のいていこうとする指先を捕らえ、ぎゅっと握りしめた。
幸村の手は、おどろくほどに、冷たく冷えていた。
「し、まど…」
そのまま、とまどうように身をよじろうとした幸村の手を引いて、己の腕の中にそっと抱く。
左近のほうが、縁側に立っていたせいで、ちょうど幸村の頭が左近の胸にくるような格好になった。
ならば、聞こえるだろう。
左近の、心の蔵の鼓動が。
――生きている、あかしが。
(そんなに知りたいなら、存分に知ればいいさ)
左近も、そして幸村もまた、生きているということを。
急に己を抱きしめた左近の行動が、まるで予測できなかったのだろう。幸村はあっけにとられたように、固まってしまっている。
その体は、衣までが冷たく冷え、夜のうちに下りた霜に濡れてしっとりとしていた。
いったい、いつからここに立ちつくしていたのだろうか…
酔いを覚ましに、などというのはきっと嘘だ。
きっと、時折ああして、一人ぼんやりと長篠の地に想いを寄せているに違いない。
…それを考えると、なぜだか無性にやるせなくなった。
だから、
「あんたは、逝くなよ」
いってくれるな。と左近は思った。
おそらく、幸村は、すべてが失われてしまったあの日に、捕らわれているのだ。いまだに、あのときから幸村のなかでの時間はすすんでいない。
それでは、いつかきっと、幸村は願うようになってしまうだろう。
己もまた、かの人たちのところへいきたいと…
いや、もはやそう思っているのかも知れないと、左近は思った。
けれど――。
それを引き留めるための、慰めも、叱咤も左近は口にはできないのだ…!
だから左近は、それだけを言葉にした。
「あんたは、逝くな――」
「しま、どの…」
左近の腕の中で、幸村はびくりとした。
「そ、れは……、私は…、っ」
逃げたいのか、これ以上は耐えられないのか――。それとも、左近の予感が図星であったのか。
左近の腕から逃れようと、幸村の腕が、そっと左近の胸を押す。
「……幸村」
けれど、左近は幸村を抱く腕を、緩めようとはしなかった。
左近とて、自分がどうしてそんなことをしたのか、よく分からなかった。
どうしてだろうか。
幸村に好かれているわけでもない。必要とされているわけでもない。
ただ、共有する過去があるだけの関係の己に、なにかがしてやれるとも思えない。
けれど、ただ――、
ほんの少しだけ、
せめていまだけでも、
この腕の中で暖めてやりたいと思った。
それは、暁が近づき霜の下りた庭に、ただひとりたたずむ幸村の姿をみとめたあのときから、
――彼が、夜露に濡れて寒いと鳴く、仔猫のように思えたからかもしれない。